土屋作庭所通信

令和元年秋号(令和2号)

2019年11月01日

土屋作庭所通信 令和元年秋号(令和2号)

修学院離宮(上離宮 浴龍池)

森蘊(もりおさむ)先生について

今回は修学院離宮について記していきます。前回の仙洞御所はあえて予備知識なしで訪れましたが、この度は予習に予習を重ねてからの訪問でした。教科書は森蘊氏が修学院離宮について書かれた著作を用いました。森蘊氏は庭園史の大家で昭和42年まで奈良文化財研究所の建造物研究室長を務められた方です。退官後も庭園文化研究所長として、京都の浄瑠璃寺庭園を始め全国の歴史的な庭園の修理、復元を手がけられています。(奈良文化財研究所HPより)庭園史を語る時には避けては通れない方で、実は森蘊氏は私の師匠である古川三盛氏(雑誌「チルチンびと」に庭についての随想がよく掲載されています)の先生でもあります。若き日の師匠と先生とのやりとりは「庭の憂」(古川三盛著)にも登場します。残念ながら私は先生との直接の接点はありませんが、幸いにも残された多くの著作を読み、師匠から学んだ作庭の感性、技術を照らすとその系譜を継いでいることを感じます。いや、その系譜に位置したいという願望なのかもしれません。しかし、それはともかくとして今回は先生の著作を引用させていただきながら話を進めます。

後水尾上皇

庭を語る時に、その作者を語ることは庭の説明にはなりませんが、その庭が出来た背景をおさえておくために作者を知ることはとても大事です。ことに仙洞御所と修学院離宮を語るとなれば後水尾上皇の名を出さないわけにはいきません。仙洞御所は後水尾上皇の住まいであり、その後水尾上皇が作られたのが修学院離宮なのですから。16歳で皇位を継承された後水尾天皇は34歳の時に幕府に無断で突如退位されます。それは紫衣事件など天皇にとって不愉快な所為が度重なったためと史実は語っています。その五年後に住まいである仙洞御所の一部が上皇のお気に召すように修理されます。この時の作事は小堀遠州が担当。上皇の雄大な御好みにまかせて、その構成は頗る大らかなものであったとのこと。ちなみに現在の仙洞御所はその後大きく改造されており、この時の遺構で現在残されているのはほんのわずかであることは前号に述べた通りです。また、「上皇は修学院の地が決定を見る十数年前から、長谷、岩倉、幡枝に御幸御殿又は御茶屋を設け、その床、棚、書院の意匠や、壁、襖などの貼付、杉戸の絵などに至るまで色々と工夫を試みられている。その結果、これらの豊富な経験済みの意匠、手法を修学院で総仕上げしたと見るべきである。」と、森先生は記しています。修学院離宮は上皇が60歳の時に工事が始まり64歳の時に完成されます。そうして完成した修学院離宮と後水尾上皇との関わりを語った記録として「御庭の一草一木に至るまで、ことごとく後水尾院の御製なり(槐記:近衛家熙の記録)」は名高いものです。後水尾上皇がここまで力を入れて作られた修学院離宮とはどのような庭園なのでしょうか。

修学院離宮見学

修学院離宮は上離宮、中離宮、下離宮の三箇所からできています。その周辺は田んぼで、一昔前はその田んぼの畦道を通って行き来したそうです。今は立派な道ができています。

さて、見学ルートは下離宮から中、上離宮と進みますが今回下離宮と中離宮の説明は省略致します。その理由は上離宮こそが修学院離宮をよく現していると思うからです。下、中離宮共にとても魅力的な庭園があります。むしろ私にとっては上離宮よりも勉強すべき箇所が多くあります。しかしながら上離宮をもって修学院離宮ではないかと考えます。そう、私が参考にしようがないほど上離宮はスケールが大きく、そのスケールの大きさこそが修学院離宮だと思うからです。

上離宮に小細工はありません。その代わり大きな細工が一つあります。それは自然の谷を土手で堰き止めて、その谷に流れていた川の水を溜めて池にしたという大きな細工です。それも山並みの中腹で堰き止めているため、その池は高い位置にあり下からはその気配すら感じられません。(正確に言えば、その気配を隠すための工夫がしてあります)畦道を登って一息ついて、あたりを見回すと眼前に大きな池が目に飛び込んできます。「まさか、こんなところに池が!」と。予備知識なくここを訪れた時は、きっとそう思うに違いありません。そして、その池がとても清潔感あふれる綺麗な池なのです。自然の池の多くは低地にあり、ともすると澱みがちですが、この池は高地にある人口池です。水際がすっきりと整備されていて、とても明るい池なのです。天上池なんて言葉はありませんが、そう名付けたい気持ちです。昔、ここを訪れた貴人たちは、ここでまず船に乗ったそうです。川を堰き止めた土手は直線的で低い生垣が植え込まれています。船上から見れば、緑の生垣の上は青い空。水面と大空が一つの視野におさまる景色はさぞや爽快なものでしょう。天上人の景色と言えるかもしれません。修学院離宮の楽しみはこの船遊びが一番ではなかったかと思います。池の大きさは南北に約200m、東西に約100mあります。島が二つありますが、これは人工物ではなく、元は尾根だったところが、水没して、その尾根の背が現れているといったものです。とにかく雄大な景色です。この池のまわりに道があり、見学ルートもその道を歩いて池を一周します。途中、茶屋などもありますが造園的な工夫といいましょうか、仙洞御所にあるような地形で視界をコントロールする様な凝ったところはありません。森先生も「表現が素直で頗る風景的であるから、多くの人にわかりやすく愛され易い」と記しています。そう、修学院離宮はよく自然風景的な庭園と評価されますが、まさにその通りで細工がないため逆にとても説明しにくい庭とも言えます。ここで、小説家の立原正秋氏が「日本の庭」で修学院離宮について語る箇所を引用します。「ずいぶんと風景を眺めてきたが、これだけ間然するところがない展開図は、やはりここだけのものである。・・・ここをどのようにほめても、言葉が浮くだけである。一文士の語彙などたかが知れている。かりに言語が抽象的なかたちをあらわすものであっても、実在を超えることはできない。・・・これはもう、この展開図を目前にした者の直接体験にまかせるよりほかないだろう。したがって私は修学院を語るのをここでやめるべきである。」小説家の筆力をもってしても語りにくい修学院離宮。この「語りにくい」「説明しにくい」ということが庭ではとても大事なことではないかと考えています。話は途中ですが続きは次号と致します。

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